三十年の掻痒

               ロバート・ドレフュス
               訳者:吉田収(大道魯参) peacenetjp@yahoo.co.jp

著者:「マザー・ジョ−ンズ」の寄稿文筆家ロバート・ドレフュスは「コロンビア・ジャーナリズム・レヴュー」で昨年「出版界で働く最高の、謳われない、ジャーナリスト」に指名された。


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三十年前、エネルギーの産痛の中で、ワシントンの鷹達は合衆国のためにペルシャ湾岸の石油支配の戦略を抱懐した。今や同じ戦略家達がホワイトハウスを強固に支配しており、ブッシュ政権は地球的制覇を筋書き通りに演出している。

ロバ−ト・ドレフュス
2003年3月1日

地球儀を回して、アメリカの帝国を建設するのに死活的な
不動産を探すなら、最初の停留所はペルシャ湾岸でなければならないだろう。この地域の荒漠な砂地は世界の石油樽の三分の二を保有している−見積りによっては、イラクの埋蔵量だけで、ロシア、中国、メキシコを合わせた分になるという。過去三十年間、ワシントンの外交政策戦略家達の影響力有る一グループは湾岸に十字線照準を合わせて来たが、彼等は合衆国の地球的統治を確固たらしめるには、その地域とそこの石油の支配権を握らなければならないと信じている。1970年代のエネルギー危機の間に生まれ、それ以降一世代の政策立案者達によって精製されてきたこの方策は、ブッシュ政権に最も大胆な表現を見出しているが、この政権はイラクを侵略して、ワシントン報恩政権を樹立する計画をもって、以前の如何なる政権よりも湾岸地域をアメリカの保護領に変える事に接近している。

現今、合衆国の政策を駆り立てている地政学的見通しにおいて、国家的安全保障の鍵となるのは地球的な覇権、つまりどの競争相手でも或いは全ての競争者を制覇するということである。その目標に向けて、合衆国はその軍事力を何処でも、何時でもくり出せなければならないばかりではない。それは更に鍵となる資源、中でも主要な石油特に湾岸の石油を、支配出来なければならない。今やホワイトハウスとペンタゴンで方針を決めている鷹達にとって、この地域は合衆国の石油供給の分け前(年が経つにつれ他の資源がもっと重要になって来たが)にとって死活的であるのみならず、それは合衆国が世界のエネルギー生命線に施錠して、地球上の競争相手に潜在的に近接権を拒否出来るということである。現政権は「資源への近接権を得るには資源を支配しなければならないと信じている」と最初のブッシュ大統領の下でサウジ・アラビア米国大使だったチャス・フリーマンが言っている。そして、「彼等は、冷戦の終結は合衆国がその意志を地球的に強制出来るようにしたし、力で事を決める能力を持つものはそうする義務が有るという考えに取り憑かれている。それがイデオロギーになっている。」と言う。

イラクは、この見解によれば、類なく重要な戦略的褒美である。アラスカの凍結したツンドラの下の石油、中央アジアの草原の彼方に封鎖された石油、暴風雨の海の底にある石油等と違って、イラクの原油は直ぐ手の届く所に有り、生産するには世界一安く、バレル当たり1ドル半以下である。既に、過去数カ月に亘って、西欧の会社はイラクの亡命者達と会い、その大当たりの当り籤を自分のものにしようとしている。

しかし、諸会社はアメリカが支配するイラクでの金儲けを望んでいるが、サダム・フセインを取り除く圧力を石油会社重役達が掛けている訳では無く、彼等の多くは戦争の結果を憂慮しているのである。また、チェニ−副大統領とブッシュ大統領の二人とも以前石油事業家であったとは云え、湾岸を其処から稼げる利益だけで見ている訳ではない。現政権はもっと大きなこと、遥かにもっと大きなことを考えているのである。

「イラクを支配するのは、燃料としての石油よりもむしろ、権力としての石油に関係している」とハンプシャ−大学の「平和と世界の安全保障研究」の教授であり「資源戦争」の著者であるマイケル・クレアーが言っている。そして「ペルシャ湾岸の支配は、ヨーロッパ、日本、中国の支配、と翻訳されるのである。それは我々の手を口栓に置いているということだ」と言う。

1970年代以来ずっと合衆国は基地を設け、武器を売り、軍事同盟を鍛造して、湾岸地域に軍事的筋力を盛り上げて来たのである。今や、合衆国は来るべき何十年に世界の勢力均衡の支点となるべき場所に其の武力を統合するのを待ち構えているのである。一撃の下、イラクを支配することで、ブッシュ政権は長期に亘る戦術的企図を固めることが出来るのである。「それはキッシンジャ−計画だ」と元合衆国外交官ジェームズ・エイキンズは言う。そして「それはお払い箱になったと思っていたのだが、戻って来た」と言う。

エイキンズはクエートとイラクへの合衆国公使として、そしてついには1973年と74年の石油危機の間、サウジ・アラビアへの大使として働いていた時、石油政治について辛い教訓を学んだのである。ワシントン特別区の彼の家では、中東の壷類や他の記念品で一杯の本棚が壁を被っているが、それは外交の仕事のお土産である。ほぼ三十年近く後でも、彼は合衆国がアラブの産油国群を占領する用意をすべきだと言う考えに最初に出くわした時の事を思い出すと、興奮するのである。

1975年、エイキンズがサウジ・アラビアで大使だった時、「アラブの石油を捕捉」という表題の論文が「ハ−パー」という雑誌に現れた。その著者は、マイルズ・イグノタスという筆名を用いていたが、「ワシントンに本拠を置く教授で合衆国の政策決定高官達と親密な繋がりを持った防衛コンサルタント」と身元がわかった。その論文は、エイキンズが述べるように、概略「アラブの油田を確保することによって(また)テキサス人とオクラホマ人にそれを操業させて、如何に我々の全経済的、政治的諸問題を解決し得るか」というものであった。同時に同様な話が他の雑誌や新聞に洪水のように出た。「奥深い背後の指示に依ったに違いないと判った」とエイキンズは言い、「独立に、八人も同じネくれた考えを持ってやって来るなんてありませんよ」とも言う。

「その時私は命取りになる過ちをしました」とエイキンズは続ける。「私はテレビでそんな事を提案する者は気違いか、犯罪者か、ソ連のまわし者だといったのです。」それから間もなく、と彼が言うには、奥深い背後の指示は私のボス、当時国務長官だったキッシンジャーが指揮を取っていたのであった。エイキンズはその後、その年の秋に首を切られた。

キッシンジャーはその論文の種を植えたとは決して認めていない。しかし、彼はその同じ年のビジネス・ウィ−ク紙の対談で「サウジ・アラビやイランといった国々が協力しなければ、大々的な政治的戦争を仕掛けて、その政治的安定と多分その安全保障を危険に曝して」石油価格を下げることを熟考して、サウジに薄いベールで覆った脅迫状を送り付けたのであった。

1970年代、湾岸におけるアメリカの軍事的存在は事実上皆無であったので、その石油の支配権を握ると言う考えはパイプ(阿片用、石油用)の夢物語りであった。しかしながら、マイルズ・イグノタスの論文や、保守的な戦略家の並行的なものや、ジョンズ・ホプキンズ大学の教授ロバ−ト W. タッカーのコメンタリー紙のものを皮切りに、この考えは子犬のような(キャンキャン吠える)強行派の一群や、イスラエル寄りの思想家達、特に民主党上院議員で、ワシントンからのヘンリー・ジャックソンやニューヨークからのパトリック・モイニーハンに連なる鷹派連中の間に好意をもたれ始めた。

後にこの戦略家たちの合成はネオ・コンサーバテイブ(新保守主義者)として知られる事になり、彼等は、1980年代、レーガン大統領の国防省、シンク・タンク(政策研究機関)、学術政策センターで重要な役割を果たした。ペンタゴンの影響力ある防衛政策諮問委員長リチャード・パ−ルと国防副長官ポース、ペンタゴン及び国務省で数十の要職を占めている。頂点では、彼等はチェニー副大統領と国防長官ドナルド・ラムズフェルドに最も近いが、両者は1970年代中頃フォード大統領の下でホワイトハウスで仕事をしたので、近くに居並んでいる。彼等はまた、チェニーが1991年湾岸戦争の間防衛長官として仕事をしていた時に彼の周りに集まっていたのである。

この時期、特に湾岸戦争の後、合衆国軍隊は湾岸とその周辺地域、アフリカの角から中央アジアに至る所を、着実に侵食していった。イラク侵攻と占領の準備に合衆国政権は過去四半世紀に亘って、軍事及び政策策定者達の取った地歩を築き上げて来たのである。

第一歩:急速転回軍団
1973年と74年に、さらに1979年に中東の政治的激変は石油価格を巨大な釘状急騰に導いたが、これは十年で十五倍に跳ね上がり、ペルシャ湾岸に新しい注目を集めることになった。1980年にカーター大統領は湾岸を合衆国の影響圏として、特にソ連からの侵食に対抗するものとして、効果的に宣言を出した。「我々の立場を絶対的に明確にする」と言って、後にカーター・ドクトリンとして知られるものを宣言したのである。「ペルシャ湾岸地域を支配しようとする如何なる外部勢力の試みもアメリカ合衆国の死活に関わる利益に対する攻撃と看做され、そのような攻撃は軍事力を含むあらゆる必要手段で排除されるであろう。」これを裏付けるため、カーターは危機に臨んで、数千の合衆国部隊を急進させ得る「地平線越え」軍事単位である、急速転回軍団を創設した。

第二歩:中央指令部
1980年代、レーガン大統領の下で合衆国は湾岸諸国に基地と支援施設の許可をするようにと迫った。急速転回軍団は中央指令部という湾岸と東アフリカからアフガニスタンの周辺地域に責任を負う新しい合衆国軍事指令部に変貌した。レーガンはトルコ、イスラエルとサウジ・アラビアを含む反ソ連連合の「戦略的合意」を組織しようとした。合衆国は80年代初頭、サウジにAWACS空中警戒管制機からF-15戦闘機にいたる何十億ドルに値する武器を売った。そして、1987年、イランとイラクとの戦争が頂点に達した時に、合衆国海軍はペルシャ湾を航行するオイルタンカーを守るために合同艦隊「中東」を創設し、たった三、四隻の軍艦の存在を四十隻以上の航空母艦、戦艦、巡洋艦の艦隊へと拡張したのである。

第三歩:湾岸戦争
1991年までは、合衆国はアラブ湾岸諸国の土地に永続的なアメリカの存在を許すよう説得する事は出来なかった。その間、サウジ・アラビアは合衆国と近い関係を保ちながらも、その商業的軍事的結付きを多様化させ始め、80年代末に合衆国大使チャス・フリ−マンが其処に赴任するまでには合衆国は其の王国への武器供給者の中で第四番目に落ちていたのである。「合衆国は商業的関係でさえ英国、フランス、中国に取って代わられていた」とフリーマンは述べている。

これは全て湾岸戦争で変わった。サウジ・アラビアも他の湾岸諸国も、もはや直接の合衆国軍事的存在に反対せず、アメリカの軍隊、建設隊、武器商人、軍事援助団がどっと押し寄せた。「湾岸戦争はサウジ・アラビアを地図通りに戻し、由々しく摩滅した関係を復活させた」とフリーマンは言う。

戦後十年で、アメリカ科学者連盟によって集積された資料によれば、合衆国はサウジ・アラビアに四百三十億ドル以上の武器、機器、軍事建設プロジェクトを売り、クウェート、カタール、バハレーン、アラブ首長国に百六十億ドルを更に売っている。「沙漠の嵐」作戦以前では、合衆国軍事関係はインド洋の比較的湾岸遠隔の地オーマンにのみ、軍需物資を集積する、即ち予備投入する権利を享受していただけであった。戦後、殆どその地域のどの国も合同軍事演習、合衆国の海軍戦隊と空軍中隊の受入れ、合衆国の予備投入権許可を始めた。「我々の中東における軍事的存在は劇的に増加している」と当時の国防長官ウィリヤム・コーエンは1995年に自慢している。

合衆国の存在を押し上げたのは、1991年のイラク北部と南部の飛行禁止区域の一方的強制措置で、トルコとサウジ・アラビアの基地からの殆どは合衆国航空機による強制によるものであった。「大々的増強があったが、特に北部飛行禁止区域を警邏するためのトルコのインサ−リックと南部飛行禁止区域を警邏するための(サウジの首都)リヤッドでそれがあった」とワシントンにある政策研究機関の防衛情報センターのコーリン・ロビンソンは言う。十億ドルのハイテク指令部がサウジ・アラビアのリヤッドの近くに建設され、過去二年の間に合衆国は秘密裏にカタールにもう一つ完成していた。サウジ・アラビアの施設は「サウジ・アラビアが使う能力より遥か以上の能力容量を持ったものだった」とロビンソンは言っている。そして「そしてカタールが今やっている事がまさにそれだ。」と。

第四歩:アフガニスタン
アフガニスタンでの戦争は−そしてテロに対する終わり無き戦争、これは合衆国をイエーメン、パキスタン、その他での攻撃に導いたが−更にその地域でのアメリカの勢力を押し上げた。現政権は防衛予算で大きな増加を勝ち取った−2000年では三千億ドルを丁度超すだけだったのが今や四千億ドル程になり−その予算の大きな塊、多分六百億ドルがペルシャ湾と周辺での合衆国軍を支援するために予定されている。湾岸周縁、アフリカの角にあるジブ−チからインド洋のデイゴ・ガルシアまで、の軍事施設は拡張され、基地と訓練使節団は合衆国の存在を中央アジアに深く侵入させている。アフガニスタンから陸封された以前のソ連共和国ウズベキスタンとキルギススタンまで、合衆国軍は長いことロシアの影響圏にあった地域に地歩を確立した。自らの権利で石油が豊富に持ち、戦略的に枢要な中央アジアは、今や地中海と紅海からアジアの後背地に深く入り込み伸びる合衆国の基地、施設、連合国の殆ど連続的な鎖の東の結び目となっている。

第五歩:イラク
サダム・フセインを除く事はアメリカの帝国的存在を固めるための、はめ絵パズルの最後の一枚であるかも知れない。合衆国がイラクに軍事基地を保持する事は「大いにあり得る」と指導的なネオ・コンサーヴァテイヴ戦略家ロバート・ケイガンが最近アトランタ・ジャ−ナル−コンステイチューションで語っている。「我々は多分長い期間に亘って中東で大々的な軍事力集中を必要とするだろう」と彼は言った。「我々が経済的な問題を持った時には我々の石油供給の崩壊によって引き起こされたのだ。もし我々がイラクに軍事力を持っておれば、石油供給の崩壊は無いだろう。」

ケイガンは、「ウィ−クリ−スタンダ−ド」紙のクリストルと共に、政策研究機関、「新しいアメリカの世紀プロジェクト」の創設者であるが、これは外交政策鷹派集合体で、ペンタゴンのパ−ル、「ニュ−リ・パブリック」紙発行者マ−チン・ペレッツ、元中央情報局長官ジェイムズ・ウ−ルセイを含む。ブッシュ政権のこのグループ関係者はチェニー、ラムズフェルド、ウオルフォウィッツ;I. ルイス・リッビ−副大統領補佐官、国家安全保障会議中東部長エリオット・アブラムズ;ホワイトハウス付属イラク反対グループのザルメイ・カリルザ−ドである。ケイガンのグループは同様のネオ・コンサーヴァテイヴで、イスラエル寄り諸組織網と結びついており、イデオロギー的親縁性はニクソンとフォード政権で鍛えられた思想家達の一団を代表している。

サウジ・アラビアから帰ったばかりのエイキンズにとっては、この連中は、1975年の昔、最初に下書きした計画を実行しようと狙っている、余りにも見慣れた顔ぶれなのである。彼が言うには、「一旦イラクを獲たら、ことはもっと容易になる。クウェートはもう手の内だ。カタールもバハレーンもそうだ。あとの話は、サウジ・アラビアだけで、アラブ首長国連邦は形がつく。」

昨夏、パールがランド・コーポレーションの戦略家ローレント・ミュラヴィ−クを自分の国家政策諮問委員会(ペンタゴンに大きな政策提言をする元上級官吏や軍人の委員会)で講演するよう招待した時、自分の仲間の考えを少し覗かせた。ムラヴィークの非公開会議報告書がメデイアにもれた時、批判の嵐を巻き起った;かれはサウジ・アラビアを「悪の核」として描いて、サウジ王家はすげ替えるか、放り出すかするべきだと示唆し、さらに合衆国がサウジの油田を占領する考えを提出した。彼は余りにも物議を醸すとランドが判断した時自分の職を失った。

ミュラヴィークは湾岸諸国は全て事実上不安定な「落第国家」であると看做し、合衆国だけがそれらを強制的に再編成し再建設する力を持っていると主張する思想を持ったワシントンの流派の一部である。この見解においては、この地域を防衛するために布置されている軍事システムと基地は又、危機が生じた場合には諸国家と其の油田を奪取する準備万端のインフラストラクチャーでもある。

国防省はサウジ・アラビアを占領する附随計画を持っているようだ、とロバート E.イーベルが言っているが、彼は[戦略と国際研究センター](CSIC)のエネルギー・プログラム部長である。ワシントンのこの政策研究機関には諮問委員としてキッシンジャー;元国防長官で中央情報局のジェームズ・シュレシンジャー;カーター国家安全保障諮問官ジグニュー・ブレジンスキーがいる。イーベルは「もしサウジ・アラビアに何か起きたら、もし統治家族が追放されたら、もし彼等が石油供給を止めたら、我々が入って行かなければならない」と言っている。

二年前、元中堅中央情報局員イーベルはCSIC作戦部を監督したが、このCSICにはエクソン・モ−ビル、Arco, BP, Shell,Texaco、アメリカン・ペトローレアム・インステイチュートを含む産業界代表と数人の下院議員が含まれていた。その報告書「二十一世紀に入ってのエネルギーの地政学」は世界は何年も不安定な産油国に依存しており、其処を巡って紛争と戦争が渦巻くに違いないという事が判るだろう、と結論している。「石油はハイ・プロファイル(高相貌)な物(ぶつ)だ」とイーベルは言う。「石油は軍事力、国庫、国際政治に火種を注ぐ。それはもはや伝統的なエネルギー需給バランスの範囲内に留まって売買される商品ではなくなった。むしろ、それは国家安全保障と国際的勢力の安寧の決定要因に変貌してしまった。」と彼は言う。

ペルシャ湾岸が今や死活的に重要であるように、その戦略的重要性は今後二十年間に乗数的に増しそうである。世界の石油埋蔵量の三バレルのうち一バレルはたった二つの国にある:サウジ・アラビア(確認済みで2590億バレル)とイラク(1120億バレル)。これらの数字はイラクの多くは未だ調査されていない埋蔵分を低く言っているかも知れず、合衆国の推測では4320億バレル保有しているかも知れないとしている。

多くの他の地域、特に合衆国と北海、で殆ど尽きてしまったので、サウジ・アラビアとイラクの石油は従来にも増して死活の重要性をもつようになっている−この事実は2001年にホワイトハウス作戦部が公にした政府の国家エネルギー政策に正式に注目されている。2020年までに湾岸は世界の原油の54%から67%を供給し、その地域は「合衆国の利益にとって死活の重要性をもつ」とその文書は述べていた。合衆国エネルギー情報管理局(EIA)の石油市場分析官G.ダニエル・バトラーによれば、サウジ・アラビアの産油能力は現在の一日940万バレルから来たる17年間に2210万に増えるであろう。2002年に一日たった200万バレルだったイラクは「2020年には容易に一桁上の産出国になり得る」とバトラーは言う。

合衆国戦略家達は主としてアメリカの石油供給を心配しては居ない;数十年に亘って合衆国はその石油輸入先を多角化するように作業して来て、ベネズエラ、ナイジェリア、メキシコ、その他の国々が重要性を増している。しかし、東アジアの産業発展途上勢力と共に西欧と日本にとっては湾岸は極めて重要である。そこを支配する者は誰であれ来たる数十年間に亘り決定的な地球的な梃子を保持する事になるだろう。

今日、湾岸の石油の三分の二は西の工業国に流れていると、EIAのバトラーは言っている。中央情報局の国家情報協議会の研究によれば、2015年までに湾岸の石油の四分の三はアジア、主に中国に流れるであろう。イーベルのCSIS作戦部の作成した報告書によれば、中国の湾岸石油依存の増加はイランやイラクとの更に緊密な軍事的、政治的紐帯を発展させ得る。「彼等は我々とは異なる湾岸における政治的利害関係を持っている。ペルシャ湾に他の競争相手を持つ事は我々にとって有利だろうか?」とイ−ベルは言う。

サウジ・アラビアへの外交官、レーガン政権の時、国務相の情報研究局の中東部の部長として仕事をしたデ−ビッド・ロングは、ブッシュ政権のアプローチをマハン海軍将校の思想になぞらえるが、後者は地球規模のアメリカ帝国を創造するために海軍力を使う事を主張した19世紀の軍事戦略家である。「彼等は世界の強制者となりたがっている」と彼は言い、「それは世界観、地政学的立場だ。彼等は‘地域で覇権を必要としている’と言うのだ」と述べている。

1970年代迄は、湾岸でのアメリカの顔は合衆国の石油産業であり、エクソン、モービル、シェブロン、テクサコ、ガルフが主導しており、皆英国のBPや英ー蘭シェルと獰猛な競争をした。しかし、70年代に、イラク、サウジ・アラビア、その他の湾岸諸国が石油産業を国有化し、油井、パイプライン、生産施設を国営会社として設立した。それはOPEC(石油輸出国機構)を強化し、これが連続して急激な価格上昇を強制出来るようにしただけでなく、合衆国の政策策定者達を警戒させた。

今日では、ワシントンの戦略家達の段々多くの者が、産油国、特にペルシャ湾岸諸国の、国営石油産業に合衆国が直接挑戦するよう主張している。アメリカン・エンタープライズ・インスチチュート、ヘリテージ・ファウンデーション、CSISといった政策研究機関はイラクの石油産業の私有化についての討議を行っている。その或るものは、イラク、サウジ・アラビア、その他の国々がどのようにその石油、ガス産業を外国の投資に開放するよう強制出来るか概括する詳細な計画を提示している。ブッシュ政権はイラクの石油がどうなるかについて多くを語らないように用心している。しかし国務省の官吏はイラクの亡命者達と石油産業について、事前会議を持ち、合衆国軍部は同国のを欲しているとの報告が既にある。

「ペルシャ湾岸の重要問題の一つは、生産手段が国家の手にあるという事である」と石油産業コンサルタントのロッブ・ソバーニが、昨秋ワシントンでのアメリカン・エンタープライズ・インステイチュートの会議で言った。既に幾つかの合衆国の石油会社が湾岸での私有化の可能性を研究していると彼は述べた。政府所有の石油会社を解体する事はその地域の政治的変更を強制する事にもなり得ると、ソバーニは論じた。「国家の手から生産手段を取り上げれば、自由な民主主義の始まりが達成され得る」と彼は言ったが、アラブ人はそういう考えに抵抗するだろうという事を認めている。「ごっつい売り込み、ごっつい商品化が必要になるだろうが」と彼は結論した。

どの会社がイラクの石油利権を主張するかが多くの議論の的となっていた。戦争の後には、イラク国家所有の石油会社がヨーロッパ、ロシア、中国の石油企業と以前締結した契約が廃棄される事は大いにあり得るし、フィールド(油原、競技場)を合衆国の石油会社に任せるかも知れない。「彼等が思い描いているのは非国営化である、その後、イラクの石油を小包みにしてアメリカの石油会社に分けてやるのだ」とエイキンズは言う。「アメリカの石油会社がこの戦争の主要な受益者だ。」

サダム後に支配者になりたがっている者達も同様の線で考えている。「アメリカの石油会社はイラク石油の大物を射止めるだろう」とアハメード・チャラビは言っているが、彼は1958年圧制的君主が倒された時その国を逃れた貴族と金持ちのグループであるイラク国民議会の指導者である。昨秋ワシントン訪問中、チャラビは少なくとも主要アメリカ石油会社三社との会合を持ち、支持を得るよう試みた。同様なイラク亡命者と合衆国会社との会合はヨーロッパでも持たれている。

「イラク亡命者が‘私達が戻れたら、私達の石油をあげよう’と言って我々の所へやって来る」と1997年までエクソン中東作戦部長のR. ジェラルド・ベイレイが言っている。「主要なアメリカの会社は皆パリ、ロンドン、ブリュッセル、至る所で彼等と会っている。彼等は皆、地位を手に入れようと企んでいる。無視する訳にはいかんが、QT(Quick Trip:ちょっとお出かけ、とcute:かわいい、を掛けたガソリンスタンドの名)でやらなきゃ。あまり遠く迄つき合って待ってはおれん。」

しかし、多くの専門家、石油会社重役、元国務省の役人達によれば、会社側も戦争の結果を心配している。「石油会社はにっちもさっちも行かなくなっている」とベイレイは言う。会社重役達は、戦争が其の地域に大荒れを創り出し、アラブ諸国が合衆国と西側の石油会社に反対する様になりはしないかと恐れている。他方、イラクへの合衆国侵攻が巧く行った場合は、石油を分け合う時には彼等はそこへ行きたがっている。「貪欲対恐怖だ」と元合衆国外交官デイヴィッド・ロングは言う。

「石油ドル」という言葉を造ったジョ−ジタウン大学の教授で、オクシデンタルとBpのコンサルタントでもあるイブラヒーム・オーウェイスは会社による注意深い策略を詳しく観察して来た。「石油会社はこの結果を怖がっているのを私は知っている」と彼は言っている。「これが石油産業の最善の利益になるかどうか彼等には全く確信がないのだ。」

ワシントンにある中東政策協議会の編集者であり、エクソンのトップ達に話をしたこともあるアンヌ・ジョイスが言うには、殆どの石油会社重役達はペルシャ湾岸での戦争が長期的に意味するものを「怖がっている」−特に其の地域の緊張が渦を巻いて押さえ切れなくなった場合のことを。「彼等はそれをあまりにも危険過ぎると見ているし、彼等はもともと危険を好まないのだ」と彼女は言う、そして「彼等はそれの至る所に大失敗が書き込まれていると考えている」と。