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日経新聞朝刊「経済教室」 2001.10.5 原文

「住民訴訟の改正案は地方分権に逆行」

安念 潤司
成蹊大学法学部教授

<要約>

@ 地方自治法の改正案が国会に上程されているが、それは、住民が自治体の首長・職員個人を被告とする現行の住民訴訟制度を改めて、自治体そのものを被告とする仕組みにしようとするものである。
A 現行の住民訴訟制度に対して、濫訴の弊害や職員の萎縮をもたらすなどの批判がなされているが、説得力がない。
B 改正案は、自体体の首長・職員を守るだけで住民にとってはメリットがないから、廃案にすべきである。

<本文>

 住民訴訟は、地方自治法にある制度で、自治体の首長や職員が違法に公金を支出してその自治体に損害を与えた場合、個人としての首長・職員を被告として、自治体に対して損害を賠償せよと請求するものである。直接の被害者である自治体に代わり住民が原告となって訴訟を起こす仕組みであるところから、この名がある。

 官官接待、入札の談合、不正経理などを是正するのに、目立たぬながらなかなかの威力を発揮してきた。国には対応するもののない、地方自治に独特の味わい深い制度である。

 さて、住民訴訟制度の改正を含む地方自治法の改正案が去る第一五一通常国会に上程され、目下のところ継続審査となっている。法律的なテクニックにかかわる部分をばっさり端折って、改正案の骨子だけを要約すれば、次のようになる。

@これまで、首長・職員個人をいきなり被告として訴訟を提起してきたものを、二段構えの構造に改める。

Aまず原告住民は、自治体そのものを被告として第一弾の訴訟を起こし、首長・職員に違法な公金支出があったかどうかを裁判所に判定してもらう。

B違法な公金支出があったと判定されれば、次に、自治体が、第二段の訴訟を起こし、首長・職員に対して損害の賠償を請求する。

 見た目には、改正の前後でさしたる違いはない。違法な公金支出があったと裁判所に認められてしまえば、首長・職員としては、住民と自治体のどちらから請求されるにしろ、自治体に対して損害賠償をする責任を負うからである。

 では、何のためにわざわざ手間ひまかけて改正するのか。

 改正案の提案者・支持者の言い分をまとめると、大体次のようになる。

 近年、住民訴訟では濫訴の弊害が目立ってきた。数もさることながら、その質が問題だ。住民訴訟はもともと、公金支出のルールに違反した行為を糺すのが眼目だったのに、最近の住民はこの肝腎のところを履き違え、自治体の環境政策が気に入らぬ、公共投資が無駄遣いだといっては、公金支出の前提である政策判断の是非を裁判で問うものが増えている。

 ところが住民訴訟では、首長・職員個人が被告となる仕組みだから、こうした筋違いの訴訟に対しても、組織の応援を当てにせず、個人として立ち向かうほかはない。その精神的・経済的な負担は大変なものだ。かくて、自治体の首長・職員は、住民訴訟を恐れて思い切った決断ができなくなり、事なかれ主義に陥ってしまう。

 そうならないためには、違法な公金支出があったかどうかの判定は、首長・職員個人が矢面に立たなくても済む手続でしてもらうほうがいい。

 万事ごもっともと言いたくなるほど筋目正しい議論に聞こえるが、考えてみれば、首長・職員の泣き言ばかりを言い募るずいぶんと一方的な主張である。

 そもそも、「濫訴の弊害」とは、大げさであろう。

 原告住民は、勝訴したところで、弁護士費用を公費負担してもらえる道はあるものの、自分の懐にはびた一文たりとも入るわけではない。そこを忍んで訴訟を起こそうというのだから、よくよくの事情があっての末に相違なく、濫訴になどなりようのない理屈である。

 確かに、一九九八年に新たに提起された住民訴訟の件数は、九四年度に比べて三倍になったが、絶対数に目を転ずれば、八九件が二六一件に増えたにすぎない。総人口一億二千万、自治体の総数三千三百、その財政支出の総額が百兆円に及ぼうという国で、たったの二六一件である。九八年度の地方自治体の歳出純計が九八兆四五九一億円だったから、これをベースに割り算すると、支出三七七二億円余りについて一件しか起きていない計算になる。他人の金を四千億近くも使っておいて、ただ一件の訴訟が勘弁ならぬとは、とても通用する話ではあるまい。

 政策判断そのものの是非を問う「筋違い」の訴訟が増えているというが、行政処分の違法を利害関係者が争う本来の行政訴訟を起こしても、端から裁判所に袖にされ、切羽詰まった駆け込み寺が住民訴訟であるからには、ここでもお門違いと追い返されてしまっては、もはや苦情を持ち込む先もない。

 実はこの住民訴訟、「濫訴」云々が取り沙汰されるはるか前から、自治体関係者の間では至って評判が悪かった。組織の決定を経て仕事として公金の支出に関わったのに、個人の責任が問われるとなれば、サラリーマンの身の上、何とかしてくれと悲鳴も上げる気持ちもわからぬではない。

 しかし、自分の属する団体に自らの過失で損害を与えれば、その原因が仕事の内外いずれにあるかを問わず個人の責任を問われるのは、自治体だろうが民間企業だろうが変わりはない。

 それに、政策決定に直接関わらない一般の職員の場合、上司の命令に従い、公金支出の手続を守っている限り、住民訴訟で敗訴するなど、まずないことだ。

 これに対して、首長はじめ幹部職員の場合、判例によれば、政策判断の誤りが損害賠償責任につながることもあるから、うっかり気を抜けないには違いない。しかし、幸か不幸か行政びいきの裁判所のおかげで、住民訴訟の原告勝訴率は一割にも満たない。そもそも、任期中に一件あるかなしかの住民訴訟に縮み上がってしまうようでは、首長の器かどうか疑わしい。

 行き届いたことに、首長であれ、職員であれ、勝訴した暁には弁護士費用を自治体に肩代わりしてもらえる仕組みも用意されている。

 要するに住民訴訟は、おちおち仕事も手につかなくなるような怖い代物なのではないのである。

 結局は勝訴できるにせよ、被告になるのだけは何としてもご免蒙りたいという本音も、改正案には垣間見える。しかし、被告と名指しされたからには、どんな濡れ衣だろうと応戦するほかないのが、裁判というものである。住民訴訟だけ例外扱いせよと駄々をこねてもらっては困る。

 一方、改正法がこのまま通ってしまえば、その弊害はずいぶん大きいものと覚悟しなければならない。これまで首長・職員個人が被告であったものが、第一段階の訴訟で自治体そのものが被告となれば、原告住民が勝訴する確率は、ますます低くなる。

 原告住民の側はこれまで同様、「時間もないしお金もないし」、そのうえ情報もないしのないない尽くし、せいぜいカンパを頼りの手弁当で訴訟を続けるほかはない。それに引き換え自治体は、税金で弁護士を雇い、公務として職員を動員し、お家の一大事に一致結束、組織を挙げて防御に努めることができるのである。一審で自治体側が敗訴しても、控訴審、上告審と延長戦に持ち込めば、原告住民は兵糧攻めに音を上げよう。

 もはや結論は明らかで、今次の改正案は、首長・職員を守るばかりで住民には格別メリットがないから、廃案にすべきである。

 地方分権の世の中なればこそ、首長・職員が伸び伸びと仕事に励めるようこの改正案を呑んでくれ、と自治体関係者や総務省(旧自治省)は言う。いかなる義理があってか何かにつけ役所筋に助太刀したがる学者先生連も、ここが忠勤の見せ所とばかりに同調する。

 しかし、住民訴訟があっても公費天国がまかり通っていたのは、つい最近のことではなかったか。「萎縮」が聞いて呆れる豪遊三昧、このうえ個人の責任が問いにくくなるとなれば、どんな勝手放題をしだすか知れたものではない。

 自治体の仕事が質量ともに増大すればするほど、住民による監視が必要になると考えるのが道理であろう。地方分権なればこそ、住民訴訟の本格的な出番が来る。むしろ、最近の外務省の体たらくを見れば、国にも同様の仕組みがほしい。

 それでも住民訴訟だけは我慢ならぬという首長・職員には、お引取り願って民間に転じてもらうとしよう。もっとも、株主代表訴訟あり、一般の民事訴訟あり、裁判ひとつをとっても住民訴訟などとは比較にならぬリスクが待ち受けている世界の方がお好みであるならば、の話である。

<略歴>
1955年生まれ。東大法学部卒。1994年から現職。専攻は、公法、経済法。


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