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2001/11/9

長野県田中康夫知事会見(重要部分を要約)
2001年11月9日

長野県田中康夫知事

 住民訴訟の改正いや、改定は必要ない、と思う。いや、行うべきでないと思う。納税者である住民が、行政の執行側の主な決定、実施事項に異議申し立てするのは、住民の当然の権利として住民訴訟では担保されるべきことだと思う

 とりわけ、首長は選挙で選ばれている。その首長、それに類する方々が、訴えられる対象であることは当然と思う。

 例えば、公害裁判でも、従来は、メーカー、企業側より、訴えた側に立証責任がある、というかたちだったが、これは大きな巨大な様々な力を有した側が「瑕疵がない」「危険がない」ということを説明、立証すべきである、と思う。公害裁判のみならず、送電線、原子力発電所、食品の裁判で起きてくるはずだと思う。

  1人1人の個人によって社会が成り立ち、意欲ある個人によって守られ、そういう個人の主張が社会に反映されていく流れは当然である。知事の職に就いて1年たったが、いまも同じ考えです。

  前回申し上げたのは、様々な権限があり、それに伴って責任を生ずる立場の人間が、そうした覚悟のうえで決断や判断、執行の権限を行使するのに、そうした覚悟が希薄な者たちを結果として守る法改正である。それは修正という域の中で調整されるべき筋合いでない。

  今回、極めて弁証法のない、過半数を越える国民が原子力の力による争いの終結を望む国が存在するということ。あるいは、公権力の報道官がテレビで「次は面白い、珍しい映像をお見せしましょう」といって、爆弾が炸裂してアフガニスタンの地にいる1人の人間が死亡する場面を平然と積極的に報ずる…。そこには権力とはなにか、その行使に伴う責任、気概、哲学が希薄になっている恐ろしさをアメリカが露呈した。そうした立場に立つ人の信念に基づく判断、実行、責任が大きく問われる時代である。

  今回の法改正は、そうした哲学、信念、あるは責任をとることに希薄な者を守るかたちになっており、個人に立脚している社会の明らかに看過し得ない逆ベクトルであると思う。今後、私あるいは、長野県の判断したことに対して本筋とは異なるところでの「政局」的な訴えが起こされる事態となっても、それは恐れるにたりない。私は、逡巡したり、調整したり、妥協するものでないことを改めて表明します。

  今回の改正論議は全く意味をなさないもので、様々な権限をもち、その権限を市民のために執行すべき立場の首長などが、今回の法改正に反対の意を遂げないのは、大変に不可解である。それだけ覚悟の希薄なリーダーがバブル崩壊を経てもなお多いということなのかな、と案じています。 しかし、マスメディアでは伝えられていません。注目すべき重要な発言でなかったのか、あるいは、もっと優先順位の高いニュースが世界中に満載されていたのか、…困惑するところです。

 いくつものメディア、学者、批評家だけでなく、当の表現者もバイネームでお書きになっている。だから既に議論され尽くしており、「愚かな地方政治家の発作的発言」(日本新聞協会大会における讀賣ナベツネの誹謗発言を指す)としては、とるに足らないと前回出席した記者はお捉えになったかな、と冷静に判断しておりました。

(改悪反対は)市民として当たり前のことを申し上げただけ・ あるものを造ると、それが住民にとって危険になるような、福祉が逆に低下するようなもの、それを住民の意思と裏腹に造ろうとする行政が仮に存在するなら、この法改正は僥倖として役立つ、という議論の可能性になりうるかもしれない。改正する必要性はもともとない、と思う。

 自治体の首長のほうがそれだけ重い責任を問われるということは、国家の大臣より重要な存在であったというふうに法律上は解釈されていたのではないか、と思いたくなる。

 権力と権威は異なる。権威は判断、決断したり、責任をとる気概のない人が得てして、肩書きのように纏うもので唾棄すべきもの。権力は、結果的により良い民主主義、市民の幸せをとるために権力を行使することにおいて必要。権威は必要ありません。

  逆にいえば、1人1人の市民は相対的に組織よりか弱い存在です。市民としてまともに暮らしている限り、その市民が訴える場所があるということは、今のアメリカ、あるいはアメリカのまるでプロパガンダ放送のようなことを行うことに、なんらてらいを見せない公共放送(NHKのこと)と異なり日本においてとても大事なことと思う。


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